昭和46年08月30日 朝の御理解



 天地書附
 「生神金光大神、天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり、今月今日で頼め。」
 お道の信心をさして頂くものは、一番初歩のところから、一番最後まで、これに取り組ませて頂く訳です。ですから、大変容易く大変難しいと言う事になるのじゃないでしょうかね。天地書附というのは。金光教の信心をさして頂いて、どんなに信心が巧者になり、徳を受けると言うても、この天地書附に尽きるのですからね。だがその内容と言うものは、大変な容易い事であると同時に難しい事です。
 天地書附を心に繰り返しただけでもおかげになる。全然信心のない人に、例えば車の交通安全を願って見える方に、おかげはわが心にあると仰しゃる。和賀心にならなければおかげを受けられんのじゃない。只おかげは和賀心にあるんだと唱えただけで、交通安全を守ってやると言う程しのおかげを、受けられますよと言うてお話した事がある。それかと言うて、段々信心が進んで参りますとそんな訳には参りません。
 ですからもう本当に、信心のしの字も分からない様な人でも願って来る。そして天地書附を奉唱する。お唱え申し上げるだけで交通安全守ってやると言うような、おかげが受けられる。そこでおかげは和賀心にありと言う事の、内容を深めて行くと言う事と同時に、それがいよいよ深まって行く事が信心だと言う事になる。金光様の御信心ではそう言う事になる。私は申しとりますが、いよいよ人間の知恵、力と言った様なものの、限界とでも言わうかと思われる様なところまで世の中は進んだ、進歩した。
 それでならば人間が幸せになるかと言うとそうではない。そこでこれはどうでも金光大神の世界と言うか、金光大神お取次ぎの道の進展と言うか、お取次ぎを頂いて私共が和賀心にならして頂く事の精進、人間の幸せはここん所を願って行く以外にない。人間の幸せは、いわゆる心にあるのだと、その心とてもですその心が進化して行く、向上していくと言うか進んで行かなければ、人間の幸せは有り得ないんだと言う事をです。
 分かって貰うだけでもよい、世界の隅々の人達に、そう言う事を分かって貰うだけでも私はよいと思う。と言う風に申しますのですけれども、それをまあ私共は、お道の信奉者はいわゆる和賀心、いよいよあらゆる場合、あらゆる角度から、その中から和賀心を求めて行く、いやいよいよ和賀心を健全なもの、いよいよわが心(和賀心)を深く広く、自分の身につけて行こうと精進することであります。
 昨日、日田の綾部さん参って見えました。お店の方達を連れて、浮羽郡の大勝寺に精進料理を食べに行った。あそこは確か禅のお寺でしょうね、パンフレットの様なものを、仏教のことを容易う簡単にいろいろ書いて、ま言うならば広告の様なものですね。皆一枚当て貰って来て、この中に親先生がいっも話しとられる様な事が書いてございますと言う。貰って来ましたから私がそれを一枚貰った。
 それには信心と言うものはロ-ソクの火の様なものだ、自分の身を縮め、自分の身を削ってその周辺を明るくする、親先生の言いよんなさる事が書いてあると思うてから、まあ読まして頂いたとこう言うのである。これはもう私二十何年前、善導寺の教会で久保山先生のために頂いた御理解でした。自分の身を削り縮める、そして周囲を明るうするとこう言うのである。私と縁が出来られて、そして二十年近く確かに身を削り心を削り、本当に身を縮めて亡くなられたと。
 信心するのはそんなもんだと、と言う様な事久保山先生の為に頂いた御理解であったが、仏教では矢張りそう言っておられる。ですからその何の為に身を削り、身を縮めてまでも、自分の周囲を明るくして行かなければならんか、明るくすると言う事はどう言う事なのか。いわゆる和賀心が、私と言うものがなくなって行くと言う事。いわゆる私と言うものが空しくなって行くと言う事、それに反比例して和賀心と言うものは育って行くと言う事。だからこそ信心は尊いと言われるのです。
 ただ自分の身を削る縮めるだけで、和賀心が成長しないとするならばそれはおかしい。又それにこういう事が書いてある。般若心経の中に六方拝と言う簡単なお経、短いお経がある。私もその事を聞いてはおったけど、どういう意味か知らなかった。その意味が詳しく書いてある六方拝と言うのは、東西南北だけでなくて、上も下もとこう言われるを、拝むと書いてある。
 或る日お釈迦様が托鉢に出られた。その或るところまで見えると、一人の青年が南を向いては北を向かい、東を向いては西を向くして拝んでいる姿を見られて、何の為にその様な事をするのかと尋ねられた。青年は答えて言った。親がそうしろと言うてあったから、こうして拝むのだと。意味も何にも分からんで拝んではいけんじゃないかと、私がその意味を教えてやろうと言って、その意味を教えられた。
 それには第一に自分を生んでくれた両親を拝むもの、次には自分に学問を教えて貰ったなら学問を教えて貰った師匠、技術を教えて貰ったならば、その技術を教えて貰った師匠に対してお礼を言うのだ。貴方の妻に、貴方の子供に感謝すること。そういう様な意味の事が六ツあげられた。北を向いて拝む時にはこういう気持ち、南を向いて拝む時にはこういう気持ちで拝めと教えられた。
 いうならば此処でいう御理解なのであります。お釈迦様がその青年に対して御理解をなさった、その御理解が経文になる。だから経文と言うのは大変難しい様ですね。又事実難しいですよね。その本当の事と言うのですかね真理と言うか、又は天地の法則と言うか、そういう様なものを言わば哲学的に、お釈迦様はそういう意味で哲学者だと言われておりますが、非常に厳しく厳密に物の道理と言うかね、そういうものを説き明かされた訳です。いわゆる御説教なさった訳である。
 その御説教のすべてがあの経文なのです。ただそれを梵語と言うのですかね、いわゆるインドの言葉で言うてあるから、それをゴニャゴニャゴニャ言いよる。漢字ばかりで書いてありますから、大変むずかしいようですけれども、実を言うたらここで説かせて頂く御理解の少し容易いもの、ここの御理解はもっと難しい。だからこれを反対に我が心を(和賀心)世界の隅々に、和賀心学と言うものが出来なければならん。
 その和賀心学と言うのは、お釈迦様が説かれた経文よりも、キリストが説かれたバイブルよりも、もつと奥のある、もつと本当なことが、合楽では説かれておるのです。いや、お釈迦様でも、キリストでも、説き得なかった事が説いてある。それを只私が、この言うなら合楽言葉で、容易う話しておるから、容易い様であるけれどもその実、事実は大変難しい事なんです。
 昨日の御理解なんかはもう、信心は此処に極まったと思う程しのことですけども、なら実際にそれを解明することだけでも難しいが、それを自分の行の上に表して行く事はもっと難しいと言うこと。けれども矢張り取り組まなければならん。取り組む事に依って御理解第百節ですね、人間が誰しも願い望んでいるところの、おかげを頂かして貰える根本のものなのです。
 お釈迦様が六方拝を説かれた様に、私はいつも四方拝を説きますね。四方拝と言うは元日のことを四方拝と言うが、ここでいう御理解は自分の周囲に、自分の周囲のすべて、もう六方どころじゃない、八方どころじゃない、もう自分の周囲のすべてを拝むしかもそれが親の恩とか、師匠の恩とか、妻子に対してと言ったものじゃない、起きて来るその自体ですらを拝んで受けよと言うのですからね。合楽では難しいです。
 だから難しいだけに、それが行の上にあらわされて、自分達のものにそれがなってまいります時に、生まれて来るのが、それがいよいよ高度な和賀心です。和賀心にならなければ受けられない、だから和賀心とはその様に難しい事です。又はその様に容易いのです。その様にと言うのは、一番始めに申しました、交通安全守ってやる、ただ和賀心になっていなくっても、おかげは和賀心にある金光様と言うただけで、交通安全を守ってやると言う程しに容易い。
 だから世界中の隅々にです、人間が和賀心を目指さなければ、和賀心になることに依って人間の幸せはあるのだと言う、本当の幸せとはそれに極まったんだと。その為には、まあ私は世界中の人達にそれを義務教育の様にして、和賀心学を勉強させたい、世界中の人達にそれは実行出来なくても人間の本当の幸せ、もしも不幸の人は自分が和賀心を目指さないから、この様に不幸が続くんだという事が分からせられるところ迄は、和賀心学を広めて行きたい。広めねばならん。
 小倉の桂先生はそういう有り難い教えを、いわゆる世界万国に輝かさんと願いを立てられた様に、その願いを受けて私どもはです、それを私の心の上に周辺に、それには場合によっては自分の身を縮め削ってでも広めて行くと言う事が、そのまま光であると言う風に思うのです。ですから私は申しましたです、自分とこの御仏壇の前にでも御霊様の前にでも、訳のわからんお経文でも上げるよりも。
 ある意味に於いては祖先讃詞よりも、祖先讃詞を知らぬなら、あのおかげの泉どもばらばらと捲ってから仏様の前で、こうやるでしょう、お経の本をばらばら捲ってから何とか言いますね、あれは読んで聞かせるのか、せからしかけんでばらばらやって見せよる、それだけでもおかげ頂くんだもの、だからおかげの泉をばらばらこうやってね、二、三べんするだけでも有り難い。それを読んでやるならもっと素晴らしい。
 御霊の心を聞く、御霊が安らかになる、御霊が助かる。そういう功徳があると思う、御理解の中に。私共は本当にそれを信じなければ合楽の御理解、御理解を言うたっちゃ御理解の値打ちはないです。ここの御理解はその様な素晴らしい功徳を積んだ上にも積んだ、ものであると言う事なのである。こうやって皆さんに分かる様な言葉で説いとるから、簡単な事の様に思うけども。
 皆さんにこうやってお話ししとる事をインドの人が聞いたら、ああ大変難しい経文を繰り返しよったら、おかげを受けたと言う事になるでしょうが。だからそういう時代がですね、仏教がインドから伝来しました様にです、日本からですね金光教の信心が伝来して行かねばならん。伝来じゃない、伝わって行かねばならん。その為に私どもが身を縮めてでも、この和賀心というものに取り組んで行かねばならんと言う事になりますね。それは千年、二千年で出来る事じゃないかも知れません。
 けれども願いは矢張り、そこに持たねばならないと言う事。和賀心の解明と言うかね、これはもう大変に難しいこと。又は大変に容易い事。ですからその容易いところからです、段々それを氏子十里の坂を、九里半登ってもと言う御理解がありますね。ですから私どもがです、例えば一歩一歩一里宛二里宛でもです、この和賀心を頂点として本当の難しい、それを頂点として頂上として、それに向かって一歩一歩進んで行くというのが、金光様の御信心なのです。
 だから登れば登る程難しい、けれども登れば登る程自分の心は開けて来る、視野が広がってくる、それは山登りでも同じ事。高い山に登れば高い山に登る程、高度な信心をすると言う事になる訳です。それを例えば難しく説明するとです、この頃広島の佐藤さんが此処に頂いとる様に、平和奈心と頂いた。和と言う字は頑丈なとても頑丈な書体で頂いたと言う様なね、どんな場合であっても壊れない心。先からまでは嬉しかったけれども、一時間後にはもう不足を言うと言った様なものじゃないと言う事。
 押しても引いても、叩かれても壊そうとしても、壊されない程しのもの、そういう心が和の心だから大変難しいこと。だからそうならなければ、おかげが頂かれんというのではなくて、和ということを思うただけでも、おかげは受けられる。だからそういう難しいところ目指さなければならないと言う事。和賀心を教祖様は祝い喜ぶ心と教えられております。私は赤飯を炊いて祝う心と頂いておるときの様な心。
 賀の心とは、賀とは喜ぶと書いてある、その喜ぶでもです、祝い喜ぶ、ただ喜ぶではなくてお目出度うございますと、祝いの内容がなからなければならない。おかげは和賀心にあるというおかげという字を、教祖様はわざわざ平仮名で書いておられる。私どもの悟るところを悟らせて頂いたら、いま合楽で言われておる総ての事を、神様の御働きとして、御事柄として頂くと言う事になったら容易いでしょうが、ああそうですか総てが御事柄として頂けばよいですね、と言う位容易いものになった。
 だからそれがおかげなのです、だからおかげと容易う簡単に書いてあると思うのです。その総ての事を神様の御働きとして、御事柄として受けるという事がおかげなのです。それを私どもは七難しう言うからです、自分が損をしたの自分が恥ずかしめられたの、この仇は一ぺん討たにゃ出来んのと言った様に、難しうなつて来るだけです御事柄が。それを例えば神様の御事柄として受けたらもうこんなに容易い事はない、だからおかげは容易う受けたがよいと仰しゃる。
 信心は難しいものでない、氏子から難しうすると仰る。私どもから難しうしよる。様々な難しい腹の立つ様な問題、情けないと思う問題、いらいらする様な問題、中にあって、いやおかげじゃがのと言えたら、もうそれでお終い、そげん簡単です。先生もう大変な事が起こりました、と言うけん聞いてみると、私から言うと、神様に御礼ば申し上げんならん様な事を、大変な事が起こりましたと言うですから、私にとってはもう実に容易いおかげなのです。でしょうが。
 だから容易いものを、只私どもが分からん為に、和賀心が頂けとらん為に難しうする様な訳なんです。その為に私どもが、日々こうやって修行させて頂いておることは、ロ-ソクではないですけどもそれこそ、自分の身を犠牲にしても、縮めてでも削ってでも、周囲をあかるくしようとする、それは自分自身が助かられること、自分自身が総てをおかげと頂ける心が、そこから生まれて来る。それは自分と言うものは亡くなって行く、自分と言うものが空しうなって行くからであります。
 そこに空しうなって行くから、あるもののところの総てが神様の御働きとして、頂けるおかげが頂けるのです。今日の御理解なんか、大変にまあ言うならば難しい事を、容易う聞いて頂いた訳ですがね、けれども、さあそれを自分のものにするという事は大変難しいこと。これをもし私が学者であるならば、それこそ皆さんが難解だという位に、難しい言葉でも表現出来る事でしょう、それを例えて言うならば容易う聞いて頂いた。だからそれを皆さんも容易う受けれる信心を頂かして貰う。
 そこに称えられる生神金光大神であり、天地金乃神である。一心にそのことを願わせて頂いて、今月今日のおかげを蒙って行かねばなりません。天地書附を、この様に簡単で見やすい事ですけども、それこそお釈迦様も説き得なかったであろう、キリストも説き得なかったところを、教祖は只これだけの言葉で表現なさっておられる。それを私どもは、もっともっと深く広く、私どもの心にきっとキヤッチ出来るところまで、これを深めて行かねばならない。そういう一つの一部を聞いて頂いた訳ですね。
   どうぞ。